不安と描写
村上龍の「空港にて」を再読した。
- 作者: 村上龍
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加藤典洋と内田樹がよく村上龍を引用するからだが、結論から言うと、村上龍独特の風景と女性心理の描写のみの小説だった。トパーズに代表される「女性心理」の描写は苦手で「五分後の世界」や「愛と幻想のファシズム」などのような小説(もしくはエッセイ)の方が好きだ。前回読んだ際はあまり苦手意識なく読めたのだけれど。
※もっと言うと「超電導ナイトクラブ」も好きではない
村上龍は「空港にて」が自身の最高の短編小説だと帯に書いているが、こんなものではないと思う。
そういえば内田樹は「誤解して欲しくないが」や、「と言っているだけだ」や、文末の「〜を評価する文脈を私たちは獲得していない」などの村上龍(のエッセイ)っぽい言い回しを2002年ごろまではブログでたまに使っていた。加藤典洋の文体に村上龍の影響は見られない。
タテマエとホンネとはなにか
p79-80
僕達戦後の日本人は、いったんはガックリと膝を折り、アメリカなるものに完全脱帽する瞬間をもちました。でも、やがて占領が終わり、米兵の姿が見えなくなると、ちょっと具合が悪いな、と誰彼となく、思うようになります。ちょうど台風の間は頭を垂れて暴風に翻弄されていた稲穂が、台風が去るとふたたび頭をもたげるように、やがて自分の中に自尊心のうずきを感じるようになるのです。僕達はつまり、かつては征服者に完全脱帽し、全面的に屈服したのですが、占領が終わり、征服者が去ると、この事実をなかったことにしたくなりました。こうして、彼らのうちの何人かは、次のように考えます。いや、自分はあの時、アメリカに絶対帰依したのではない、たしかにそのようなしぐさは示した。でもそれは、帰依したふりをしたのにすぎない。うわべでは頭を下げたが、腹の中では面従腹背をきめていたのだ、と。あの絶対帰依はタテマエ上のことであって、ホンネでは、戦前以来の信念を保持していた。そう、あれはいまとなって考えてみれば、面従腹背だったのだ、と。彼らはそう考え、それを自分で信じるため、いわば、その時にはなかった「本心」を〝新設〟することにしたのです。
- 作者: 加藤典洋
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顰に倣う(ひそみにならう)
呉越の時代、呉王夫差の寵愛を一身に受けた美姫に西施という人がいた。
西施は「持病の癪」のせいで、歩くときに胸を抑え、眉をひそめていた。
その姿もまた美しく見え、その柔弱たる風情で彼女が呉王の寵を得たという風説が広まったために、後宮の女官たちはこぞって眉をひそめて歩くようになり、やがて呉国中のすべての女たちが眉をひそめて歩くようになった・・・というお話である。
寵愛を得ることができない女官たちが、(寵愛を得られない)自分と西施の位階差を「眉の動き」のうちにあると解釈したとき「顰」は呉国において文化資本に登録された。
であれば、なぜ教養は文化資産とみなされていたのに、みなされなくなったのか。
どうして仏文科は消えてゆくのか?(内田樹の研究室)http://blog.tatsuru.com/2006/12/01_1257.php
教養が文化資本ではなくなった理由も、だから簡単である。
現に日本社会で権力や威信や財貨や情報などの社会的リソースを占有している人々に教養がないからである。
私はそれが「悪い」と言っているのではない。
昔は、社会的上位者たちのかなりの部分は「たまたま」教養があった。
だから、下々のものは「教養があると社会の上層に至れるのだ」と勘違いしたのである。
もちろん、社会的上位者がその地位を占めたのは教養のせいではない。
それとは違う能力であるが、「西施のひそみにならう」ものたちはあわてて教養を身につけようとしたのである。
今日、社会的上位者には教養がない。
かわりに「シンプルでクリアカットな言葉遣いで、きっぱりものを言い切る」ことと「自分の過ちを決して認めない」という作法が「勝ち組」の人々のほぼ全員に共有されている。
別にこの能力によって彼らは社会の階層を這い上がったわけではない。
たまたまある種の競争力を伸ばしているうちに「副作用」として、こういう作法が身についてしまっただけである。
だが、「ひそみにならう」人々は、これが階層差形成の主因であると「誤解」して、うちそろって「シンプルでクリアカットな言葉遣いで、きっぱりものを言い切り」、「決して自分の過ちを認めない」ようになった。
そうして教養が打ち捨てられたのである。
以前は位階差が教養の差にあると見なされていたが、現在の上位階級は教養がなく「シンプルクリアカットな言葉遣い」「自分の過ちを認めない」振る舞いをするため、位階差はその振る舞いにあると下位層が解釈したためである。
崖を登る比喩
- 作者: 加藤典洋
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