テキストと対話することは可能なのか

私はこれまで文章(テキスト)でのアウトプットをあまりしてきませんでした。
 
 
ではなぜテキストを書こうとしているのか。学んだことをテキストにアウトプットすることで学びをより深いものにするためです。
 
これから学んだことのテキストを記述しようとした時に頭に浮かんだのは、自分の為に書きつけるメモやノートではなく対話でした。語りかけと言い換えてもいいかもしれません。
 
テキストを読んだ際に起きる著作者との対話であったり、時間を置いて読み返した時の自分との対話です。
 
簡単に「テキストを読んだ際に起きる著作者との対話」と書きましたが、今までの読書経験の中で著者との対話を意識したことはありません。村上龍の小説を読んでいて「村上龍っぽいメタファーだね。」と思うことがたまにあるくらいです。
いずれにせよ、その前提は「眼光紙背に徹す」る読書の姿勢であることは間違いありません。
 
 
 
発話の起点は、発話の起点にあるのではなく、発話が終わった後に遡及的に定位される以外には存在しえぬものなのである。発話主体とは、「自分が言っていることはいずれにせよ『自分らしくない』のだが、この辺までなら許容範囲であり、これを越すとちょっと困る」という判断を誰かが現にしている以上、(誰だか知らないけれど)誰かがそこにいるはずである推論形式で基礎づけられたその「誰か」のことである。発話主体がまず存在して、それが何かを発語するわけではない。発語主体は発話という行為の事後的効果なのである。エクリチュールというのはそのように構造化されている。
-内田樹 こんな日本でよかったね(2009) p24-

 

 

 

こんな日本でよかったね―構造主義的日本論 (文春文庫)

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