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それだけ

ティファールの中華鍋を料理に使っているのだが、なんとティファールなのに焦げ付くようになった。ティファールもフッ素加工がなければ当然焦げ付くしそれは知っていたんだけれど、でも実際そうなってみるとなんだか納得がいかないものだ。

よく、安いフッ素加工の鍋はすぐに焦げ付くようになるとかレビューを見るけれども、実際そうなってみると買い直しを迷ってしまう。
おそらく買い直すだろうけれど。今度はメラミンスポンジを使って洗ったりするのをやめよう。鍋も毎日使って、毎日きれいに洗ってしまっていると愛着が湧いてしまう。くだらないことだけれど、でも新しいティファールを買ってしまったら、古いを捨てるわけで、今まで鍋としてずっと一緒に料理を作ってきた鍋をゴミ捨て場に捨てるのが忍びない。

あ、アウトドア用にとっておくって手があるな。でもキッチンの戸棚にそんなに入るだろうか…。アウトドア用品を入れておく棚に入るだけにして捨てるのかな。いずれにせよ、ちょっと勿体ないと思ってしまう。

しつこいが、本当に迷うので何度も書いてしまう。


とかいうどうでもいい文章だと文字数が書けるのだけれども。いや文字数の問題ではなく、なんだか頭の中が空っぽになっているんじゃないかと思うくらい、本を読んでも頭に入ってこない。実はここ2週間くらいそうだ。日本の無思想を読了せずに今まで読んだ本を再読したりしているので、まったく読了した本というのが増えない。

急に頭がぼんやりする病気ってあるのか。いや、あるんだろうけれどなんだか環境のせいにしているだけのような気がする。

それで今、仕事帰りにドトールでこのどうでもいい文章を書いているけれど、以前GEの本を読んでいた男性がまた今日も紀伊国屋で買った本を二冊楽しそうに読んでいた。なぜ同じ人と気づいたかというと、ポストイットをテーブルにおいて読んでいたからだ。そう、本を読みたければ読めばいいのだし、文章を書きたければ、書けばいいんだけれども、書くことに対してなんというか雑念が多い。

雑念が多いのは今始まったことではないだろう。

と、書いているうちに「書けない自分は恥ずかしい。自分の考えを文章に書けるようになりたい。」という当初の欲求を想い出した。なにも本を読んで引用して書く必要もなく、自分で考えて文章を書けば良い。それだけなんだけれども、例えばかえるくんもそうだけれども、「いやそうじゃなくて、何かモヤモヤしたものが頭に去来しているが、これが文章にならないものか」と考えているうちに、どうでもいい引用をして、さらにいうと加藤典洋の大河に合流する支流の例えのように、聞いた風な結びの言葉を書いてしまっている…。これ、本末転倒で、例えば本の頁の上のところに「そんなこと、なんの根拠でこういうことが言えるの?どういうことかわからない」と言ったような、頭の中に兆したような事を文章にしたいのだけれど。

ではそうすればいいのだけれど、どうすればいいのか。とにかく、書けるようになるには書く、読めるようになるには、読めば良い。どう思われるのかは、どうでもいい事だと一旦保留すればいいのだ。





今、書いてみて思い出した。こういう落書きというか、小学生レベルではない、自分の考えを伝えることができる文章を書きたかったのだ。

ただし、考えていればの話。ドトールから帰ってくる途中で、「全く考えないで生きているので、考えることに頭が耐えられないのではないか」と思い当たる。

考えを文章にすることができない、と書いてみて、いや文章にすることで自分が何を考えているのかわかるのだったと思い当たる。つまり、あると思っている「自分の考え」なんかない。モヤモヤしたなんとなくがあるだけ、思考はそこから文章を書かないと表出してこない。