世界はもっと良くなるはずだという希望

昨日、仕事帰りに目黒川を通りかかったので夜桜見物をした。

 
目黒川はここ数年人気があるスポットのようで、今年も人がたくさん出ていたが去年よりも少なかったように思う。(表題のように)だから将来に希望が持てないということではなく、漠然と希望を持てたような時代が果たしてあったのかわからないが、90年以降、希望というムードなどまったくかんじられない状況ずっと続いているしこの後も同様なのではないだろうか。
 
 
何が言いたいのかというと、生まれてからずっと将来は良くなるという希望がない世代がバブル崩壊以降続いているが、そういう世代が社会へのコミットメントへのインセンティブをどうやって獲得しているのだろうと疑問に思ったのだ。
 
 
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社会へのコミットメントがないというのは、就業しないということや、育児放棄するという意味ではなく、「社会への関わりにおいてより良いものを目指そう」と思わないのではないか、という意味だ。
 
他人事のように言っているが、それぞれ個別には突破できない問題であるばかりではなく、それ以前にそもそも世界がよりよくなっていくという希望を経験したことがなければ、そもそも希望があること自体を知覚できないのではないかと思う。
 
希望は好景気とイコールではない。しかしかなりのウェイトを占めている。経済はマクロそのもののため、どのように働きかけていいのかわからないし、「こうすれば景気が良くなる」という方法論自体がない。
 
閉塞的な状況が常態となっている時代には希望ではなく、他のものがインセンティブとして必要なのかもしれない。
 
 
 
というようなことをよく村上龍は書いていますよね。
 
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希望という意味では私は小学校の時、このままゲーム機の性能があがったらどのような世界が訪れるのだろう、とわくわくしたし、宇宙旅行に大人になったら行ってみようとも思った。また医療技術の進化により両親がずっと死なずにいつまでも家族で過ごせるのではないかと思っていた。
 
こういう進化はもちろん今ある程度現実化しているし、更に進化を続けている。
 
前段では経済状況に明るい展望がないと希望が持てない、希望のかわりになるものが必要なのかも?と言った書き方をした。つまり、仮説として社会が良くなることへの希望があった時代があったが今はない。希望がないので社会へコミットメントするインセンティブが失われている、だが最初から希望がない世代では希望ではない他の何かがインセンティブになるのではないか、という主旨だ。
 
ただ、本当に希望もしくはその代替がなければいけないのだろうか。例えば生きていくのに必死で社会へのコミットメントなど考えたことがない層も確実にいるだろう。
 
希望とは、例えば経済状況がある条件を満たした際にだけあるように感じるものであり、それによって世界へのコミットメントが変わるのではなくあくまでもその時代を通り過ぎたあと、そういえば希望のようなものがあったと後から思う物なのかもしれない。