帽子につけるバッジ(5才)

盛岡は雪国なので子どもも毛糸の帽子を被る。

 

ある日、父は私の毛糸の帽子にエーデルワイスの白いバッジをつけてくれた。父の帽子は水色に白いラインだったが、自分の帽子は良く憶えていない。

 
帽子をかぶって保育園に行くと、ある男の子に「そのバッジちょうだい」と言われた。それまで、○○してくれだとか言われたこともなかったが、断ったこともなかったので、断り方がわからなくて、困った。困ったあげくに嫌だけどあげてしまった。帰って母に言うと「どうして大切なバッジをあげたくないのにあげたのか、明日返してもらいなさい」と言われたが、そんなことは言いたくなかったし、それよりも困ったことや断りきれなかったことについて優しくして欲しかったがそうは言えなかった。母は厳しいと思った。
 
翌日は母が怖い一心で「返して…」と言ったらその子も返してくれたけれど、だからと言ってなにか言うべきを言ったという達成感はなかった。
なにか自分の意と反したことに渋々了承すると、いずれ母に見つかった場合には「本当にそうしたいのか?」と問いつめられてしまう、それが嫌だと思っていた。
 
 
 
 

スーパーカブ(5才)

保育園には父親が迎えに来てくれていた。弟は一学年下で、2人でスーパーカブに乗って家まで帰った。

正確に言うと保育園に隣接した農業試験場の中のアパート(宿舎)に住んでいたので、父は子どもを保育園に迎えに行きバイクに乗せ、数メートル走って降ろし、私たち兄弟はそこから近道の谷を下って登る「探検」をして谷から上がると谷の向こうに父が待っているという、今にして思えば父はよく保育園児のそういう道草に付き合っていたなと思う。



その頃の記憶かそれよりも前かわからないけれど、弟はいなくて父と母の3人で農業試験場を歩いている。私は父と母の片手づつ手を握って貰ってブランコみたいにしてもらうのが好きだったけれど、あまりしてくれなかった。

本当は沢山してくれたのかもしれない。でも農業試験場の保育園から入ってきた栗の木を過ぎたあたりで一回やって貰った記憶しかない。でも、好きなのだから何度かはして貰ったのかもしれない。


私は記憶にないが、母の話で夜中にお腹が痛いと言い出した私を母の職場の病室に連れて行こうと車で出たら、すぐに治ったと言って楽しそうに車の外を見ていた事があったとそうだ。車に乗って出かけたいだけだったのだろう。多分そうだ。



消防車の本(4才)

自分のことを思い返してみて、どうしてこうなってしまったかを考え直してみないとテキストがどうこう書いても上滑りなのかも知れない。


よく憶えていないけれど、病室に母親が消防車か何かの本を持ってきてくれた。

それより前はあまり憶えていないな。3〜4才か。


母親は医学部の先生だったので、おそらく医学部のある病院の病室にいたのだと思う。

母親が病院のドアを開けて入ってきたシーンを憶えている。嬉しかった。本を貰ったことも多分嬉しかったのだと思うけれど、母が来たのが嬉しかった。

もう少し小さい頃はよく、「自分で!」と言いながらなんでも自分でやりたがったそうだ。何故だろう。




ある日母が弟を叱っていたところ、まだ小さい弟が泣くので「弟を叱らないで、僕を叱って」と言ったら、母が後で「あなたは優しい」と言ったのだけれど、私は優しいと褒められたのはうれしかったのだけれど、いつもそうすることはできないかもしれない、それほど大層なことはしていないのに今後そうできないときは失望させるのかと思った。弟はいつも何も考えてないように見えて羨ましかった。

飴を買ってくれだの、お姉ちゃん(父の職場の同僚で向かいの独身寮に住んでいてのちにお兄ちゃんと結婚した)が来るとずっと膝の上にいた。私もお姉ちゃんが好きだったから甘えたかったのだけれど、弟が好き放題するので我慢していた。


それを見て母が「あなたは我慢ばかりしていて情けない、やりたいことはやりたいと言わないといけない」というが、「俺もお姉ちゃんに甘えたい」とは言えなかった。それと、飴や砂糖は嫌いだったから、そこは両親の意向と合致していた。

何故思っていることが伝えられないのか

何故思っていることが伝えられないのか。


それにすぐに答えが出るのなら、悩みにはならない。これまでは「受け取り側に問題があるのだ」と思っていたけれど、それは違うだろう。

おそらく伝わっていたが、その思考経路まで見透かされていたので、敢えて(私の為を思って)伝わらないようなふりをしてくれていたのだと思う。


太郎冠者の無意識の部屋の番人例え(内田樹さん)で、気づいていないのは太郎冠者だけだったように。周りを上手く騙せているつもりだった。


「言いたいことが上手く伝わらないと嫌だ」こんな小学生のような悩みを急に打ち明けるものだから、だいたいの人は笑顔で「大丈夫だ」と言ってくれるんだけれど、大丈夫な訳がない。大丈夫だよなと思っているのは俺だけだ。

もっとバカ

論理的には整合的なのだが、『道徳の系譜』を書いたときにニーチェがまだ気づいていなかったことがあった。
それは「畜群」というのは「畜群を見ると吐き気がする」というような「貴族のマネ」も簡単に出来るタフな生物だった、ということである。
その一世紀後に「オレ、ニーチェ読んで、あのバカども殺さないかんつうことが分かったわけ」とほざく子どもたちが輩出するとは、かの天才も想像できなかったであろう。
大衆はニーチェが思っているより「もっとバカ」だったのである。
その惨憺たる帰結はご存知のとおりである。

内田樹街場の現代思想 (文春文庫) 」(2004年) 文庫版 p220

 

まさしく俺のこと(私のこと)だ。どうしてわかるのかわからないが、おそらく周りはみんな気づいているんだろう。

ものすごく頭が悪いのだと思う。

いや頭が悪いというのもあるけれど、他の事が邪魔しているんだと思う。「こう見られたい」という格好つけたい気持ちが何事においても邪魔だし無駄だ。

 

 

街場の現代思想 (文春文庫)

街場の現代思想 (文春文庫)

 

 

 

 

「fairness」と「desency」

「fairness」と「desency」
 
村上春樹の小説の一人称「僕」はまっとうな人間であり、少なくともまっとうであろうとしている人間だった。
 
このまっとうさは、物事に誠実に向き合うということだろう。
 
誠実であり、礼儀正しくあるとは当たり前のことだし、そんな事は出来ていて当然と思っていたけれど、自分は全く出来ていない。
 
おそらく「誠実であり礼儀正しい俺っていいよな」くらいの考えだったのだろう。(今なおそうだ、たぶん)。
 
 
あたしは四十五年かけてひとつのことしかわからなかったよ。こういうことさ。人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べるってね。どんなに月並みで平 凡なことからでも必ず何かを学べる。どんな髭剃りにも哲学はあるってね、どこかで読んだよ。実際、そうしなければ誰も生き残ってなんかいけないのさ。

 

 

 

1973年のピンボール

1973年のピンボール

 

 

 

観たいように観て、読みたいように読む

仕事でマニュアルを作って、実務をするスタッフに配布し説明する。それでもなかなか書いてあることが伝わらない。そのことについて長いこと悩んでいたし不満もあった。



先日自分も全く同じことをしていることに(ご指摘いただき)気づきショックを受けた。

ともするとテキストというのは、自分が読みたいようにしか読まない。読みたいようにしか読まれない。内田樹を引用するまでもなく自分で立証してしまった。自分のことはわからないものだ。




自分の死角(自分の能力の死角、欠陥)を見つめることは難しい。