タテマエとホンネとはなにか


仕事帰りにドトールでホワイトデーのお返しを買い、コーヒーを飲みながら日経新聞をスキャンしてevernoteに移す作業をしようと席に座った。並びの席の3つ離れたテーブルに50才くらいのサラリーマンが「GE 世界基準の仕事術」を見ながら一生懸命に付箋になにか書きながら読みそれを貼り、しばらく進むと振り返って付箋とは別のカードに何かを記入する作業をしていた。

楽しそうな読書だと思った。そのカラフルな付箋には何を書いたのか。カードには何をまとめたのか聞きたかった。

ただ、その後スーパーで買い物をしながら思い返してみると「あの人は実践で苦労するだろうな」と思った。日本の企業は世界基準ではないからだ。成果や適正なプロセスは評価対象に直結しないし、何よりチームメイトのモチベーションがバラバラでは空回りして終わるだけだ。だからと言って無駄だと言いたいのではなく、苦労するだろうと言いたいだけだ。50才くらいという年齢も気になった。今から働き方を変えるのは大変だろう。でももしかすると全く僕の想像とは違う業態で働いている人かもしれないし、働いていない可能性もある。ただ、本当に楽しそうに真剣に読書をしていたのが印象に残ったのだ。

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加藤典洋さんの「日本の無思想」の第1部の途中までを読んでいるが、大戦後の日本の断絶や歪みが見事に解説されている。いろいろな考え方の人に読んで貰いたいが、特に政治的なポジションがない、憲法改正?知らねえなあという人は読んでも何も響かないと思う。

何故、日本はあの大戦を始め、終戦の判断をし、アメリカ占領下での憲法をどういう変節を持って受け入れて、戦後また55年体制をどうやって納得し支持したのか、この辺りに疑問がなければなんとも思わないかもしれない。


p79-80

僕達戦後の日本人は、いったんはガックリと膝を折り、アメリカなるものに完全脱帽する瞬間をもちました。でも、やがて占領が終わり、米兵の姿が見えなくなると、ちょっと具合が悪いな、と誰彼となく、思うようになります。ちょうど台風の間は頭を垂れて暴風に翻弄されていた稲穂が、台風が去るとふたたび頭をもたげるように、やがて自分の中に自尊心のうずきを感じるようになるのです。僕達はつまり、かつては征服者に完全脱帽し、全面的に屈服したのですが、占領が終わり、征服者が去ると、この事実をなかったことにしたくなりました。こうして、彼らのうちの何人かは、次のように考えます。いや、自分はあの時、アメリカに絶対帰依したのではない、たしかにそのようなしぐさは示した。でもそれは、帰依したふりをしたのにすぎない。うわべでは頭を下げたが、腹の中では面従腹背をきめていたのだ、と。あの絶対帰依はタテマエ上のことであって、ホンネでは、戦前以来の信念を保持していた。そう、あれはいまとなって考えてみれば、面従腹背だったのだ、と。彼らはそう考え、それを自分で信じるため、いわば、その時にはなかった「本心」を〝新設〟することにしたのです。


日本はなぜ徹底抗戦をしなかったのか、した場合のシミュレーションが村上龍の「5分後の世界」と「ヒュウガ・ウィルス」で描かれていますが、それはまた別の機会に書きます。


日本の無思想 (平凡社新書 (003))

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五分後の世界 (幻冬舎文庫)

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ヒュウガ・ウイルス―五分後の世界〈2〉

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